天変地異を占った陰陽師とルーツ
コンタクトマンのミツシュウラです
先日このような動画を見つけました。
この動画がきっかけで面白いことが判明しましたので、紹介します。
この動画で紹介されている(450年前の落書き)は、鹿児島の伊佐市という場所にある神社から見つかっています。
この神社は筆者が勤めていた会社の近くにあり、何度か訪れていました。
神社の創建は、菱刈氏です。
この菱刈氏を調べると、びっくりしました。
菱刈氏とは
菱刈氏は、その系図によれば藤原氏の後裔である。保元の乱に崇徳上皇方に属した藤原頼長の子孫と伝えている。
保元元年(1156)、後白河天皇は院宣を下して菱刈両院七百町歩を重妙に賜った。
菱刈両院とは牛屎院(現在の伊佐市)・太良院のことである。
幼い重妙は菱刈に下向できなかったが、建久四年(1193)、鎌倉幕府将軍の源頼朝から、あらためて菱刈両院の領有権を安堵する下し文を与えられている。
菱刈氏は、藤原氏の末裔であり、頼朝から菱刈を授かったとのこと。
元々秦氏だったので、太秦と名乗っていた時代があったそうですW
最近話題にしていた名前ばかりですよ。
菱刈は日本一の金山のある町です。(佐渡を抜いてダントツらしい)
古代は牛屎院(うしくそいん)と呼ばれていました(笑)
この地区は元々太秦氏が相伝していたとあります。(1100年代)
太秦とは、秦氏ですね。
南九州は島津忠久が源頼朝の任命で荘園(日本最大)を作りました。
(島津忠久は頼朝の子孫とも言われている)
そこで島津忠久を調べると、興味深い内容が出てきました。
吾妻鏡では、忠久が天変の祈祷をしたり、将軍の病気治療のための鬼気祭を行ったとあるそうです。
加茂祭(現:祇園祭)の祭主を勤めていたとも。
鎌倉幕府に仕えながら、京都では陰陽道の仕事をしていたそうです。
吾妻鏡には、天変地異と陰陽師の天体観測のことが出てくるそうです。
鎌倉時代、雨乞いの儀式では以下のことが行われていたそうです。
①牛馬を生贄にする。
②諸社の神を祀る。
③市を移す。
④河の神に祈る。
これを見て、ぴーんと来ましたよ。
牛屎(うしくそ)の地名に牛が使われていますね。
牛馬を犠牲にするのは、先秦からの風習なんですよ。
秦氏(始皇帝の子孫)らしい風習です。
さらに、吾妻鏡には、以下の祭が書かれています。
七座泰山府君祭
これを見てすぐにわかりました。
泰山は道教の聖地です。
陰陽道は中国から来たものと思いました。
陰陽道を調べると、面白いキーワードが沢山出てきました。
横道にずれるので、本題に戻ります。
先日のライブ配信で、島津家は神道で信仰心があつかったという話をしたばかり。
うちの先祖は島津家に使える薩摩藩士で、代々神社の氏子をしている家系です。
(実家は神道)
うちの家系のルーツは秦氏と出てくるのですが、繋がってきたのです。
島津家が信仰しているのが稲荷神社であり、稲荷神社は秦氏の氏神だそうです。
鎌倉時代、陰陽師が天変を観測し、未来を占っていたのです。
取り仕切ったのが、秦氏や安倍氏など中国や韓国と繋がりのある家系。
雨乞いをしたり、病気を祈祷で治したり。
国の政治に占い師(陰陽師)が深く関与していました。
時代が変わり、現代へ。
筆者はこの十年、ずっと天変地異への注意喚起をおこなってきました。
それらは、鎌倉時代の陰陽師がやってたことなんですよ。
血筋だからできたのです。
血は争えない(笑)
鎌倉時代に祀っていた祈祷の中に以下の文字を見つけました。
七座泰山府君祭
泰山は、秦始皇帝を初め、歴代の皇帝が祭祀を行った聖地中の聖地です。
泰山は神様が降りる場所だから、祀るのです。
調べると、円仁が関与しています。日本の陰陽道の由来です。
円仁は、中国に行って、仏教を学んできたお坊さんですが
帰国時に中国の赤山で命拾いをしています。
お礼に日本に赤山と泰山を祀ったのです。(赤山禅院)
泰山府君は、中国五岳(五名山)の中でも筆頭とされる東岳・泰山(とうがく・たいざん)の神であり、日本では、陰陽道の祖神(おやがみ)になりました。
赤山禅院は、平安京の東北にあり、表鬼門に当たることから、赤山大明神は、皇城の表鬼門の鎮守としてまつられました。以来、皇室から信仰され、後水尾天皇(1596~1680)が離宮へ行幸された際、社殿の修築と「赤山大明神」の勅額を賜っています。
円仁が赤山で滞在したお寺は、法華経のお寺でした。
円仁が五台山で修行をしたときに文殊菩薩と遭遇します。
おそらく、文殊菩薩と陰陽道がそこでつながります。
安倍晴明が文殊菩薩を祀っているのも、円仁が由来でしょう。
なんか最近調べていることばかり、連なって出てくるのです。
パズルが繋がってきて、面白いです。
参考になれば幸いです
ミツシュウラ