聴覚は第十織への通過門
コンタクトマンのミツシュウラです
以前から、聴覚の話をしてきました。
海外に4年住み、技術通訳を3年半やった結果、聴覚が開いた。
自分の経験の話。
それから、筋肉弁護士や石丸伸二の話題の時に
彼らは本を読んで勉強ばかりしているから、聴覚が開いていない。
視覚情報ばかりインプットすると(詰め込み教育)人の話を聞かず、一方的に自分の話を語るようになる。
そんな話をしつつ、人間は耳で聞いて学ぶようにできている、そんな話をしました。
したらば
岡潔先生が、同じことを言ってましたW
すごいこと言ってるんですわ。
こちらを引用します
生を知りたければ、生がよくわかりたければ、『右の内耳』に関心を集める。『聞こゆるを聞き、見ゆるを聞く』こうせよ、そうすると生がわかる。わかり方は意識を通さないでわかる。どこがわかってるのかと云うと後頭葉がわかってる。
この一番反対なことは『見る』ということをすること。見るというのは前頭葉がするのです。そうすると必ず意識を通してわかる。このわかり方でわかるものは死だけです。
で、夏休み中ぐらい、右の内耳に関心を集めて、聞こゆるを聞き、見ゆるを聞きなさい。まあ、余計なことをする前に、右の内耳に関心を集めて聞こゆるを聞く、これをやりなさい。観音菩薩はこの1つの修行だけで不生不滅を悟ったのだと云われてるんだから。そう云いましたね。
そしてこれをやれば、右の内耳に関心を集めて聞こゆるを聞く ― 関心を集めるというのは精神を統一すること。それがよく出来てれば、その状態において見たら、変わって見える。
例えば女の人の顔を見たら、若い女の人の顔を見ると、ばあさんの顔と同じに見える。若い女性と、それからばあさんとの違いは死です。内容は、生は情緒です。
情緒は、これという情緒は、ばあさんでも娘さんでも同じこと。だから同じに見える。それ、若い女性は美しく見え、ばあさんは少しも美しく見えない、これは死を見てる。
右の内耳に関心を集めるという、それだけで別の見え方をします。そうすると成程とわかって来るからやってみなさいと云ったんだけど、勿論やらなかったでしょう。
やらなかったと云う顔をしてるから(笑いながら)。やったら顔つきが変わる。しかしね、僕の云うことを少し ― 僕は哲学してるんですよ、こういう時はね。それを少しついて来るようになった。
だからそういう修行をしたんじゃないでしょうが、だいぶん右の内耳に関心が集められるようになって来たのかもしれない。本当の哲学はそうしなきゃ出来ないんですね。
岡先生は、右耳の聴覚を鍛えて、その結哲学がわかるようになったようです。
視覚情報を鍛えても、死しか見えないとおっしゃっている(?)
つまり、視覚ではなく聴覚を鍛えろと、岡先生は言っているのですわ。
ワシが言ったことやないかーい!
と脳内でツッコミを入れました。
私は、海外に住んでいる時、右耳に集中していたんです。
ひたすら聞いて理解するばかりを4年以上やりました。
そして、文字通り、聴覚を開いたんですよ。
右耳は左脳の言語脳とつながっているそうです。
さらに岡先生はもっと奥深いことを言っている。
右の内耳に関心を集めて、聞こゆるを聞き、見ゆるを聞きなさい。
観音菩薩はこの1つの修行だけで不生不滅を悟ったのだと云われてるんだから。
そしてこれをやれば、右の内耳に関心を集めて聞こゆるを聞く ― 関心を集めるというのは精神を統一すること。
それがよく出来てれば、その状態において見たら、変わって見える。
そして女性の例えを出している。
例えば女の人の顔を見たら、若い女の人の顔を見ると、ばあさんの顔と同じに見える。若い女性と、それからばあさんとの違いは死です。内容は、生は情緒です。
情緒は、これという情緒は、ばあさんでも娘さんでも同じこと。
だから同じに見える。それ、若い女性は美しく見え、ばあさんは少しも美しく見えない、これは死を見てる。
わかりにくいですが、おばあさんを見る(視覚)と、美しくないので死を見る。
しかし、おばあさんを見る(聴覚)と、若い女性と同じように情緒(生)で見える。
前々回のブログの記事で書きましたね。
鳥を見て、醜いとは思わないと。
見た目が美しくなくても、心が美しいと感じる人がいる
見た目が美しくても、心が不安を感じている人がいる。
つまり視覚情報だけでない情報が心を通じて入ってくる。
これは阿頼耶識からくるものだと書きました。
もっとわかりやすく書きますと
聞く耳を持つと言うのは、人を理解することに通じるのです。
人の話を聞いて、相手が言っていることに耳を貸すとどうなるか
そうかとわかる、でもそれは心で感じるもの。
だから聴覚は理解力と心を繋ぐ大事な五感なのです。
視覚情報ばかりの人は、見た目で判断するので、見栄えを良くすることに一心になる。
でも聞く耳を持つ人は、人を見かけでは判断せず、心で感じるのですよ。
私が中国に住んで、中国人を理解したのも、見た目で判断せず、彼らの心根の優しさを伝えるのも、聴覚を通して限度だけでなく心まで通じ合ったからです。
岡先生の言われることは、おそらくそう言うこと。
聴覚とは聞く耳ですが、単に言葉がわかるというものではない。
心や情緒とつながっていると岡先生は言いたいのだと思います。
あるいは五感を超えた、阿頼耶識に近いもの。
前回の記事で、守る会が分裂したと書きました。
相手の言っていることが理解できていないから、揉めるのです。
ちゃんと芯から理解できると、揉めませんよ。
誤解とか誹謗中傷とか摩擦を起こす人たちは、聞く耳が育っていない
岡先生は情緒と言う言葉をよく用いているのだけども。
わかりやすく言うと
人の話を聞く時、最後まで聞かず遮る人います。
あるいは、聞いてすぐに言葉を返す人もいる。
でも、人の話を聞くってことは、そして受け入れる場合は、必ず間があるのです。
ジィッと聞いて、最後まで聞いて、そのあと、無言の間が入る。
その無言の間の時に、スーッと入ってくる。理解のエッセンスが。
これが聞く耳を持つ状態。
ところが、最後まで聞かず、速攻で返す人は、間がないのです。
心や情緒に通じていないのです。
聴覚が開く、聞く耳を持つと言うのは、間の間に入ってくるものを受信する。
これができてない人は、聞いているようで聞いていない
わかっているようで、実はわかっていない、誤解している。
話が通じない感じがするのです。
自我の世界に入り過ぎて、他者との壁を作っている。
話がいつも一方通行の人は、聴覚が閉じている。
視覚情報がメインの人に多いよね。
全然違う話を返して、話題が移ったり、寄り道し過ぎて、戻れなくなったりW
とにかく話が噛み合わないのが特徴。
誤解、邪推、勘違い、浅いW
例えば外国語は得意なんだけど、芯からは分かってないとか
そう言う人もいるんだわ。
私は聴覚のことを考察するときに、いつも思うのが
人の話を聞いて、育つようにできているのだなと。
方言は、周りの大人の話を聞いて身につくらしい。
方言が喋れない子供は、テレビやネットで育っているんだって。
難しいおじいちゃん、おばあちゃんの方言を理解できる子供は、人との繋がりが親密なことを示しているそうだ。
激しい方言がわからないと遮断する子供は、大人とのつながりを絶っている。
そういえば、藤原先生の話が聞き取りづらいと不満を言う人がいたんだ。
でも、私はそう思ったことがない。だから、なんで?って思ってたけど
おばあちゃんの方言と同じことなんだ。
わかる人にはわかる、わからない人にはわからない。
わかる人は聞く耳が開いている。
わからない人は、聞く耳が閉じている。
つまり、理解は言語脳ではなく、心である。
それが情緒を育て、第七織とか第八織とか、上の意識に通じているんだろう。
仏教ってすごいな。
岡潔先生、最高だ。
宇宙世界は今日も平和です
ミツシュウラでした
