大月氏と翡翠
コンタクトマンのミツシュウラです
クシャン朝の大月氏をWIKIで調べてみました。
月氏は玉(ぎょく:ヒスイ)の産地(タリム盆地)を占めていたので、玉氏が訛って月氏になったとする説があるとです。
翡翠の産地で玉を作っていた?
うーーん。
更に、こちらのサイトに興味深い情報がありました。
当時の漢は西域(現在の新疆のあたり)に勢力を拡大しており、その地域を統括する役職として「西域都護」を置いていたのだが、クシャン朝は西暦90年に7万の軍勢を繰り出して西域都護の班超を攻撃、しかし長距離の遠征に疲れて補給困難に陥ったところを反撃されて敗退した。その後のクシャン朝は毎年漢に朝貢するようになったという。
そのあたりまでのクシャン朝の様子は主に中国の史書によってうかがうことが出来るのだが、102年に班超が死んで漢の勢力が西域から後退すると、古銭の銘文や仏典の記述ぐらいしか文字資料がなくなってくる。クシャン朝最盛期の王とされるカニシカ王の在位年すらはっきりせず、120~162年頃説、128~155年頃説、144~172年頃説と色々の説があって決着がつかない有り様である。
初代伽耶王は、42年から199年までの在位です
彼の在位中、クシャン朝は漢に敗れ、朝貢することになりました。
更に、在位中にクシャン朝は滅亡したようです。
伽耶王の在位は長すぎるので、誤りと思いますが
漢に敗れたクシャン朝は、朝貢することになった。
インド人の嫁が伽耶国に嫁ぐ理由ではないかと思いました。
同サイトに次のような文章があります
匈奴は紀元前202年に漢を攻撃、優勢な戦いを展開し、「漢は毎年一定量の絹、酒、米等を匈奴に贈り、さらに皇族の娘を単于に嫁がせる」という条件で和睦した。
朝貢に(皇族の娘)もあったようです。
漢>クシャン朝 だったので、人質として、皇族の娘を差し出した。
(漢と伽耶国の関係はわかりませんが、漢の方が強そうです)
では、伽耶国の王は、どこからきたのか。
北方騎馬民族以外は、わかっておりません。
しかし、大月氏は、匈奴と戦って追いやられたので
大月氏より強い民族だった可能性が高いです
大月氏の鉄や翡翠も気になるところ。
翡翠を求めて、倭国に進出したのではないだろうか。
今回はここまで