邪馬台国は東北にあったらしい

邪馬台国は東北にあったらしい

コンタクトマンのミツシュウラです

 

会員さんから教えてもらったサイト。

古代東日本に見るペルシアの足跡

須藤 研 東京大学生産技術研究所 名誉教授

かなり、読み応えありますね。

 

万葉集第一巻一歌「篭毛與 美篭母乳 布久思毛與 美夫君志持 此岳尓 菜採須兒 家吉閑名 告根 虚見津 山跡乃國者 押奈戸手 吾許曽居 師<吉>名倍手 吾己曽座 我許背齒 告目 家呼毛名雄母」

「豊かな胸の女性たち、立派な一物をぶら下げた男たちが畑仕事をしている。この場所こそ今はない「ヤマ国」(邪馬台国のこと)の跡地なのだ。そして、元気な若者たちが酒を飲んで団欒している」

 

ペルシア語に当てはめて訳した文章。

須藤氏は、やま国は鹿島ではなかろうかと。

鹿島神宮とゾロアスターのシリウス信仰の関連性を指摘しています。

 

鹿島神宮は大鳥居から参道を東に進み、南に直角に曲がった先に拝殿がある。

拝殿の向かう方角は南北軸から左に20度傾いており、これは香取神宮拝殿の配置と同じである。

渡辺氏がその調査から発見したのがシリウス星方位である。

常陸国三大古社の鹿島神宮吉田神社静神社は常陸国一の宮、三の宮、二の宮で、それら三社が直線上に並ぶ

その北の延長線上に茨城県の最高峰、標高千メートル余の八溝山(やみぞさん)がある。この山はを産し、採れた金が遣唐使経費に充てられたと続日本後紀にある。

シリウス星方位の年変化と、三古社の方位から建造物を設営した時代を推定すると鹿島神社は西暦530年頃吉田神社523年頃、静神社485年頃となる。起点の八溝山山頂には464年頃観測拠点が設営されたのだろう。

 

 

ゾロアスターのシリウス信仰は、伊藤教授も本に書いています。

 

渡来民を核として常陸国に盤踞した「蝦夷」を征討した美麻貴天皇は後日「御肇國天皇」なる栄誉を受ける。とするならば、奈良の政治勢力による日本列島統治が完成したのは7世紀末から8世紀初めということになる。渡来民による鹿嶋陣屋設営が6世紀半ばとの推定とも整合する。

福島県須賀川市とその西方(長沼地区)には、鉾衝神社神炊館神社、岩淵神社、松塚神社が底角30度の二等辺三角形を形成し底辺の中線がシリウス星の方向になっている。

シリウス星方位変化によれば、その設計は4世紀末で、八溝山に観測拠点を設ける以前となる。

 

奈良の朝廷は討伐隊を派遣して、蝦夷を打とうとしています。

新潟に柵が設けられました。奈良は東北(蝦夷)を敵視していたわけですね。

民族が違うからでしょう。蝦夷を打つ拠点を茨城に置いたわけ。

 

白河藩士の広瀬蒙斎が松平定信の命でまとめた『白河風土記』は、稗田阿礼が東北人であると書く。この人物は、名前の由来は古代ペルシア語のラテン文字表記で「呪い」を意味する「farye」で、ゾロアスター教の神官であったと考えている。奈良の征服者に囚われた後、東北地方の渡来民に関わる事象・治世を彼らに語ったのだろう

 

稗田阿礼って古事記を編集した人ですが、ペルシア人だったの?

ということは、古事記はペルシア人の物語になるのかな。

 

隋書倭国伝は「開皇二十年(600)、俀王阿毎、字多利思北孤、號阿輩雞彌、遣使詣闕。上令所司訪其風俗。

使者言、俀王為兄、以為弟、天未明時出聽政、跏趺坐、日出便停理務、云委我弟。……王妻號雞彌、後宮有女六七百人。名太子利歌彌多弗利。」と書く。

倭王の名前は古代ペルシア語で読むと「阿毎」(アメ)は「火、明」を意味し、「多利」(タリ)は「照、輝」である。

太子に付される「多弗利」(タフリ)は「稚、子供」を意味する。

倭王一族は古代ペルシアからの渡来民で、その渡来民が日本列島で倭国を政治的に代表していたことになる。

 

日本書紀は「大(王)足(多利思)彦忍代別天皇 景行天皇、稚(多弗利)足彦天皇 成務天皇」と書く。

まさに隋書そのままである。

 

興味深いことに、日本国神道の原点「天照大神」なる呼称が隋書倭国伝の倭王の名前に由来していることがわかる。

隋書倭国伝には、倭国の民が渡来人の国であったことを示唆する表現「竹斯」がある。

ちなみに「波斯」はペルシアである。

遣隋使が持参した国書の「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」なる文言が物議を醸した。

東北にあった「日出る国(扶桑国)」と九州にあった「日没する国(耶麻連邦)」はどちらも倭国で、東西の倭国の首長間での挨拶がそのまま隋への挨拶文になったとすれば、決して非礼な呼称ではない。

この東西二つの領域を支配する倭国に挟まれて、葦原中国(大和、先祖は讃、珍)があった。

葦原中国は「倭」国を「蝦夷」と呼び、「倭国」を壊滅させる過程で自らを「日本国」と名乗ったのである。これが旧唐書に記載される日本国内の「二つの国」の真実である。

 

筆者は、倭国が二つあった説には違和感を感じました。

隋書倭国伝には、(倭王は天を兄とし、日を弟と為す。天未明時に出かけて、聴政を行う。日が出る時に理務を停止する)とある。

日が出る時に政治をして、日が沈む時に政治を停止する。という意味に思える。

日出る天子、日没する天子の由来ではなかろうか?

日が沈む九州と日が昇る東北、二つの国の説は唐突だが、他に根拠があるのだろうか?

 

伊藤義教京都大学名誉教授は、古代ペルシアにいた三つの「サカ」族、すなわち「カスピ海の向こうのサカ」「尖がり帽子」「ハウマ信仰」のサカ族が日本に来たという。「サカ」は「スカ」または「スガ」に転じ、「須賀川」はそれに由来する。

渡辺豊和氏はこのサカ族こそが蘇我一族であるとしている。

千葉県芝山町の芝山古墳から尖がり帽子の埴輪が出土し、顔つきや髪から日本列島土着の民とは思えない。常陸国行方郡では非常に激しい戦争があり、夜刀神(やとのかみ)率いる渡来民が殲滅された。彼らの出自はイラン中部のゾロアスター教の中心地ヤズドである。

 

須藤氏は、邪馬台国には言及していないが、文脈から、鹿島神宮が邪馬台国であり、ペルシアからきた渡来人であったということだろう。

隋書倭人伝には、倭王=アメのタリシホコが倭国を統治していた。太陽を信仰しており、名前からペルシア由来と思われる。

倭王=景行天皇であり、奈良王朝に制圧されてしまった東北の勢力とのこと。

 

倭王=百済、蘇我馬子=百済との説があるが

百済にはペルシア人がいたのだろうか。

 

考古学者ではないが、東大教授が東北のペルシア王国について言及しているとは。

 

筆者は自力で調べて辿り着いたのだが、かなりいい線行っていると思いましたわ

 

 

サカ族が気になる

 

 

ミツシュウラでした

 

 

 

 

 

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