ペルシアの王が新羅に亡命し、日本へやってきた 八坂神社の由来か?

ペルシアの王が新羅に亡命し、日本へやってきた 八坂神社の由来か?

コンタクトマンのミツシュウラです

 

やっぱワシの勘は当たりますW

昨夜のライブ配信(削除済)で、ササン朝ペルシアの王族が新羅に亡命したのではないかと話していました。

調べたら、実際にあったとです。

ここからなんと、八坂神社につながるのですよ。

驚嘆したとですわ。

 

まずは、こちら。

ペルシアの王と新羅の姫が結婚をしたという物語

なんと、2009年にイギリスで見つかった本に書かれており、2014年に研究結果が公表された。

 

唐の記録

651年 ササン朝ペルシアが滅亡

→  ペーローズ3世はパミール高原に逃亡し、に助けを求めた

唐はしばらく放置した後に、アフガニスタンにササン朝の難民の避難先を準備した

678年 ベーローズ3世は吐火羅に入り、20年以上逗留した。→ その後消息不明となる

 

クシナメ

ペルシアの皇太子アビチンが逃げて唐として亡命した。(唐の対応が遅れた)
アビチン皇太子は新羅に亡命した。
新羅とイランが連合を結成し、中国に勢力を伸ばした。
アビチンは新羅に戻り、新羅姫プラランと結婚した。
プラランは息子を産んだ。
アビチン、プララン、息子はイランに帰国した
父は処刑されるが、息子は敵を破り、イランの王となった。
新羅とイランの交流は続いた。

 

日本書紀

654年 吐火羅国(とからのくに)の男二人、女二人、舎衛(しゃえ)の女一人、日向に漂着した。

657年 都貨羅国(とからのくに)の男二人、女四人が筑紫に漂着した。駅馬を使って都(飛鳥岡本宮)へ召された。

彼らや須弥山をかたどったものを、飛鳥寺の西に作った。盂蘭盆会を行った。都貨羅人に饗を賜った。

659年 吐火羅の人が、妻の舎衛の婦人と共にやってきた。

660年 高麗人は帰途についた。都貨羅人乾豆波斯達阿は、本国に帰るための使いを頼んだ。

「再び日本に来てお仕えしたいと思います。証に妻を残して参ります」

675年 舎衛の女堕羅の女・百済王善光・新羅の仕丁らが、薬や珍物を天皇に捧げた

引用元

 

八坂神社由来

斉明天皇2年(656年)に高麗より来朝した伊利之(いりし)が新羅国の牛頭山(ごずさん)に座した素戔嗚尊(すさのをのみこと)を当地(山城国愛宕郡八坂郷(やましろのくにおたぎぐんやさかごう)に奉斎したことにはじまる。

 

時系列を見れば明らかです。

 

651年 ササン朝ペルシア滅亡 難民は吐火羅国に逃亡

654年 日向にペルシアの王族らが亡命

656年 八坂に新羅人が(牛頭大王)を祀る(ペルシア朝関係であろう)

657年 筑紫にペルシアの王族らが亡命 → 明日香京に移住 関連施設を作る

659年 吐火羅の人が、舎衛の婦人と共にやってきた。 → ペルシア王子と新羅の嫁か?

660年 王族だけ帰国 嫁は明日香に滞在

675年 ペルシア関係者が天皇に貢物を捧げた

 

八坂神社の牛頭大王は、ペルシアの神という筆者の推理は、再び証拠が出て参りました。

面白くなってきました!

 

今回はここまで

 

 

クシナメに関する動画はこちら(字幕を日本語にすればなんとなくわかりますW)

 

 

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